小京都中村の歴史

小京都 中村

小京都とは

「小京都」とは、古い街並みや景観が京都に似ていることから名付けられた、街の愛称のことです。
公式に小京都と名乗れるのは全国京都会議に加盟した自治体で、次の条件に1つ以上合致していれば承認されます。

1.京都に似た自然と景観
2.京都との歴史的なつながり
3.伝統的な産業と芸能があること

ここ四万十市も昔から「土佐の小京都」と呼ばれてきました。

起源は室町時代。応仁の乱の戦火を避けるため、関白一條教房公はここ中村(現・四万十市)に中村御所を構えました(現在の一條神社)。都を懐かしんだ一條公は、京都を模した碁盤の目状の街づくりをしました。昭和21年の南海大地震で昔ながらの街並みはほとんど残されていませんが、現在でも基盤の目の街並みや鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などもあちこちに残っていますし、「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」、「一條大祭」などの京文化の名残りもあります。

四万十市は、「小京都」の3条件を全て満たしているのです。

全国小京都会議は、昭和60年に京都を含めて26ヵ所で発足しました。同会発足のきっかけは、実は、私たち四万十市が作りました。

四万十市中村では毎年11月に「一條大祭」で奉納する御神火を、京都下鴨神社からいただいておりました。昭和57年、その御神火をいただくために京都を訪れた際、京都の観光協会を表敬訪問させていただきました。その際に対応して下さった京都観光協会の方が、京都との繋がりを大切にしてる四万十市の文化に大変感激され、これが一つのきっかけとなり、3年後に全国京都会議が発足したのです。

現在は46の自治体が加盟しており、全国に広がっております。

第一幕が平成29年3月9日からはじまった『志国高知幕末維新博』では、土佐一條家からはじまる小京都の歴史から、時代を経て幕末・維新期に四万十市で活躍した人物を紹介しています。
志国高知幕末維新博についてはこちら

一條家 家系図

※クリックと書いてあるところをクリックするとその人物の説明へとジャンプします。

一條教房(1423 – 1480年)

土佐一條の祖を築く。才人一条兼良の長男です。応仁の乱を機に、46歳で一條家の荘園である土佐幡多荘に下向。荘園の立て直しを進めつつ、中村が対民貿易の中継地として栄える基礎を築く。享年58歳。没後冥福を祈って多くの人が仏門に入ったと伝えられ、教房が幡多荘の人々に慕われていたことがうかがえる。

一條房家(1475 – 1539年)

母は地元の実力者加久見氏(土佐清水市)の娘。幡多の国人たちに請われて中村にとどまる。中村を京に見立てて街並み・地名を作成。幡多荘を安定的な荘園として発展させ、土佐一條氏全盛時代をつくる。享年63歳。

一條房冬(1498 – 1541年)

治世は2年ですが、実質は一條家の繁栄の時代を京と行き来して過ごし、宮家の姫、玉姫を妻に迎えている。朝廷への多額の献金も房冬の名前で贈られており、対明貿易の成功と裕福ぶりが伺える。享年44歳。

房冬の妻 玉姫(1521降嫁 – 1547年)

伏見宮邦高親王の王女。玉姫様の名が歴史に残るのは、中村に嫁ぐために尊海和尚と伏見の港を出港した6月22日と、亡くなった8月22日の二日のみ。夫房冬の亡きあと仏門に入り、孫の兼定が生まれた後に亡くなる。大変に美しい姫だったようで、現在でも四万十市民に慕われております。

一條房基(1522 – 1549年)

繁栄を極めた祖父、父が相次いで亡くなり、20歳で後を継ぐ。妻は九州の大友宗麟の妹を迎えている。この縁で大友氏を応援して伊予に攻め入って戦国大名化したが、28歳で自害してしまう。

一條兼定(1543 – 1585年)

幡多に暮らした土佐一條家最後の当主。父房基が若くして自害したため、7歳で家督を継ぐ。妻は大友宗麟の次女。長宗我部元親の調略で家臣団に追い出され豊後臼杵に。豊後でキリスト教の洗礼を受けドン・パウロとなる。宗麟の支援を得て中村奪還に乗り出すが、渡川合戦で敗退。伊予戸島で亡くなる。享年42歳。兼定の寵愛した藤(咲かずの藤)は一條神社創建の由来としても知られる。